滋賀県大津市 ヨガセラピー/プライベートのヨガレッスン/出張でのレッスンを行っています。
by mandala-2
リンク
カテゴリ
全体レッスンお申し込み
プロフィール
要約ヨーガセラピー
マンダラ著
ヨガ語録
ヨガ話
旧・ヨガ話
ヨガのポーズ
瞑想
月
マントラ&サンスクリット
バンダ
ヨガウェア&グッズ
カルマヨガ
八枝則とチャクラ
ヨガアサナ占い
イベント
スケジュール
お気に入りブログ
検索
以前の記事
2012年 05月2012年 04月
2012年 03月
2011年 12月
2011年 05月
2011年 03月
2011年 02月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 03月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
ファン
カテゴリ:瞑想
痛みという一握りの砂
痛みを見つめる。痛みを観察する。
それがどこにあって、どんな感じなのかを。
じんわりとした、ビリビリとした、鋭い(Pang)、鈍い(Ache)チクリとする(Prickle)、ひりひりする(Sore)・・・などなど。
痛みの塊が脈打つ、心臓の鼓動のように。
さらに観察する。
大きい範囲なのか、どこがどうなって痛いのかを。
痛みというのは、英語ではたくさん表現できる表情豊かなものに対して、日本語のそれは「痛み」一言でしかない。日本語同様曖昧なもののような気がする。
痛みのもとを辿る。ここ辺りからそこ辺り。
もっと観察する。この骨の周りからこの筋の部分、そしてこちらに走る、といったように。
ゆっくりとどうなっていくかを観察する。
痛みで涙が出そうになろうとも、その痛みを客観的に見つめながら。
痛みは、小さな粒子がぎゅっと集まったかのようなものに感じ、その粒子が全て振動し揺れている。
その揺れによって、肉体に反応が起こり、心は無意識にその感覚に反発しようともがく。
流れに逆らうかのごとく。
その流れに身を任せ、戦わず、諦めて、降伏してみる。
その瞬間、痛みは痺れに変化していった。
あの粒子の塊=痛みはそれぞれの粒の存在感を増し、揺れながら流れ、散り散りに消えていった。
痛みはまるで、手にぎゅっと握った一握りの砂のようなもの。
握り締めた拳をゆっくりと開けば、指の間からこぼれて落ち、流れていく。
手のひらを開き、全ての砂が風に吹かれて飛んでいったなら、そこには残るのはあなた自身の自由な軽さである。
「全ての人は、自らの自我に痛みをもってもがき苦しんでいる。」ゴエンカ
それがどこにあって、どんな感じなのかを。
じんわりとした、ビリビリとした、鋭い(Pang)、鈍い(Ache)チクリとする(Prickle)、ひりひりする(Sore)・・・などなど。
痛みの塊が脈打つ、心臓の鼓動のように。
さらに観察する。
大きい範囲なのか、どこがどうなって痛いのかを。
痛みというのは、英語ではたくさん表現できる表情豊かなものに対して、日本語のそれは「痛み」一言でしかない。日本語同様曖昧なもののような気がする。
痛みのもとを辿る。ここ辺りからそこ辺り。
もっと観察する。この骨の周りからこの筋の部分、そしてこちらに走る、といったように。
ゆっくりとどうなっていくかを観察する。
痛みで涙が出そうになろうとも、その痛みを客観的に見つめながら。
痛みは、小さな粒子がぎゅっと集まったかのようなものに感じ、その粒子が全て振動し揺れている。
その揺れによって、肉体に反応が起こり、心は無意識にその感覚に反発しようともがく。
流れに逆らうかのごとく。
その流れに身を任せ、戦わず、諦めて、降伏してみる。
その瞬間、痛みは痺れに変化していった。
あの粒子の塊=痛みはそれぞれの粒の存在感を増し、揺れながら流れ、散り散りに消えていった。
痛みはまるで、手にぎゅっと握った一握りの砂のようなもの。
握り締めた拳をゆっくりと開けば、指の間からこぼれて落ち、流れていく。
手のひらを開き、全ての砂が風に吹かれて飛んでいったなら、そこには残るのはあなた自身の自由な軽さである。
「全ての人は、自らの自我に痛みをもってもがき苦しんでいる。」ゴエンカ
体の中という窮屈さ
自分の体、どういう風に思うだろうか?
ひとつしかない、限られた・・・。
体というのは、自分の神聖な寺院だという。
だから、大切に扱い、大切にケアしていくこと、
すなわち、それが自分を大切にする方法のうちのひとつだ。
瞑想し、自分の体の感覚をひとつひとつ感じていく。
体の中に入っている自分が狭いような感覚。
自分がネガティブに陥らない方法、
悩んでいるのはだいたい人間関係か、自分が属している何か、どこかの中の話だろう。
その輪から出れないから、悩む。客観的に見れないから。
その輪から出て、自分を客観視すれば、実はあまり悩まなくても大丈夫なことに気がついてみたりする。
枠からはみ出るのは実は怖い事ではない。
枠からはみ出てやっと、見えてくる全体図。
自分も自分自身の体という枠から出たときにきっと何かみえてくるような気がした。
ひとつしかない、限られた・・・。
体というのは、自分の神聖な寺院だという。
だから、大切に扱い、大切にケアしていくこと、
すなわち、それが自分を大切にする方法のうちのひとつだ。
瞑想し、自分の体の感覚をひとつひとつ感じていく。
体の中に入っている自分が狭いような感覚。
自分がネガティブに陥らない方法、
悩んでいるのはだいたい人間関係か、自分が属している何か、どこかの中の話だろう。
その輪から出れないから、悩む。客観的に見れないから。
その輪から出て、自分を客観視すれば、実はあまり悩まなくても大丈夫なことに気がついてみたりする。
枠からはみ出るのは実は怖い事ではない。
枠からはみ出てやっと、見えてくる全体図。
自分も自分自身の体という枠から出たときにきっと何かみえてくるような気がした。
瞑想に必要な物
瞑想に必要な物、それは自分の身ひとつのみ。
言葉や絵を使うところもあるし、そうすることで集中できることもあるだろう。
しかし、自分自身を観察の道具として、それに集中していくから、自分の体だけあればよい。
自分の体に気づき、今、体に起こる様々なことを、
自分の体の感覚に気づき、今、感じている感覚を、
自分の心に気づき、今、思っている心模様を、
自分の心の中にあるものに気づき、今、心の中に起こっている微細な出来事を
しっかりと見つめて、ありのまま感じて、反応せず受け流していく
反発したところで、苦しみが増していくだけ。
もがけば、もがくほどに、水に沈んでいく、溺れる者のように。
例えば、蚊に刺されて痒い部分は、触ればさらに痒みが増す。
ちょっと掻いた刺激が、さらに痒さを増して、結局掻き切っては肌を傷める結果となる。
実は、触らなければ、痒みはそのうちに治まっていくものだとわかった。
生まれた感覚は、そこにとどまり、そして去っていく。
あなたもわたしも、全てのものは、生まれ、とどまり、死んでいく。
それが、この世の常であり、宇宙はそのように出来ているのだ。
その流れに逆らわず、あるがままをいきる。
自分の身ひとつで。
言葉や絵を使うところもあるし、そうすることで集中できることもあるだろう。
しかし、自分自身を観察の道具として、それに集中していくから、自分の体だけあればよい。
自分の体に気づき、今、体に起こる様々なことを、
自分の体の感覚に気づき、今、感じている感覚を、
自分の心に気づき、今、思っている心模様を、
自分の心の中にあるものに気づき、今、心の中に起こっている微細な出来事を
しっかりと見つめて、ありのまま感じて、反応せず受け流していく
反発したところで、苦しみが増していくだけ。
もがけば、もがくほどに、水に沈んでいく、溺れる者のように。
例えば、蚊に刺されて痒い部分は、触ればさらに痒みが増す。
ちょっと掻いた刺激が、さらに痒さを増して、結局掻き切っては肌を傷める結果となる。
実は、触らなければ、痒みはそのうちに治まっていくものだとわかった。
生まれた感覚は、そこにとどまり、そして去っていく。
あなたもわたしも、全てのものは、生まれ、とどまり、死んでいく。
それが、この世の常であり、宇宙はそのように出来ているのだ。
その流れに逆らわず、あるがままをいきる。
自分の身ひとつで。
人間って汚いもん。
サティパッタナの経典では、いきなりに「人間が不浄であると知りなさい。」みたいな話が出てくる。飲み込みがあまりよろしくない生徒や肉体への執着が強い生徒に教える時には、実際に目で見せてわからしてしまうのがよろし、と、墓場に連れて行くシーンがあって、けっこう文字だけでもショッキングな感じなんやけど。まあ、美輪氏がいう「人間なんて、人糞製造機でしかないのよ。おホホ~♪」って言うてんのがコレやな、ということで。
こんな感じ
↓
人の体は、皮膚やら内臓、汚物やらで汚いもんだ。
と事細かく言って、悟らすわけ。でもピンとこない場合は、
ここに散らばってる青黒く腐りかけた死体を見ろ、
と言って、いずれこないなるんやで、って悟らす。
まだピンとこない場合は、
その死体を、野良犬やらハゲタカやらに食われるんやでと、
そんなもんやで、人間の肉体って。
せやし、そんなもんに執着してもしゃあないやろ、ってなことで実際に気づかせていく。
ここのくだりがなかなか、ハッとさせられた。
人体の不思議展見た時みたいに(笑)。
肉体が全てだと思ってしまう昨今であるが、肉体だけが全てやと思ってんのは実は違うんやで、ってことでもあるんやろう。肉体の内は、狭い世界である。
世界は広く、地球だけでなく、宇宙には様々な星があることを知りなさい。
生まれた土地から死ぬまで動かんと何も知らないでいることより、いろんなとこへ行って視野を広げなさいよ、ってことにも繋がるような気がする。
サティパッターナ

感想は、・・・しんどかった(笑)。
それだけでなく、いろんな発見があり濃いコースとなり、また一皮剥けたかも(自称)。
マハ・サティパッターナ・スッタ(Maha Satipatthana Sutta)とは、四部から成る仏教の経典「大念処経」「四念処」のパーリ語。瞑想についてのことが詳しく書かれている。
肉体・感覚・心・心の中の4つ(だから、四念処)を集中して観察していくノウハウが詰まっている。仏陀の有名な「八正道」について、「愛別離苦、怨憎会苦・・・」等も含まれている。しかし、これはただの読み物、テキストではない。この瞬間の自らのありのままに気づく、この瞬間の自らをありのまま観察する、この瞬間の自らをありのまま受け入れる、実践することに重きをおいた瞑想の指導書である。
って、文字で書いたら、かなりカタめのイメージに見えてくるんやけど。
(ほんとは、そうではないよ。かといって、軽くはないけど。)
通常のヴィパッサナー10日間コースを三回以上終えた生徒が参加できるコースなので、新しい生徒さんはいない(当たり前か)。ので、人数が少ない。そして、マジな瞑想者が多い(だから、来てるんやっちゅうねん)。夜の講話の時間には、この経典をテキストとして学ぶ。
結局は、この経典を「実践する瞑想」、ってことになるんやけど。
個人的には、パーリ語が面白くて。ほとんどサンスクリットと同じ。
それは私が「言語(ちゅうか単語やな)」に興味があるから面白いと感じるのかもしれないけど。
教えは、やはりヨガの教えに似ている部分が多く、すんなりと頭に入りやすい。
だいたい1時間、1時間半の瞑想を、休憩を挟みながら、4時半~9時までやるってのを、10日間(今回は8日コース)である。一日三回、グループ瞑想として、動かないようにちゃんと座る時間があるんやけど、それに重点を置いていた私は、もう、他の時間がグダグダ・・。弱い自分をまじまじと見せ付けられた。瞑想させまいと自分の体からいろんな反応が出てくる。眠気が襲う、あちこちの痛み(反発せず動かないでじっとしているほうが実はしんどくなくなってくる)、無気力、体から出る内側からの熱によるだるさやめまい、吐き気などにモウロウ、何かと気が散って集中できず。
しかし、「気」というのは不思議なもんで「絶対に動かない!」と決意した上でビッと座る1時間のグループ瞑想だけは、そんなことも起こらずちゃんとできたりするのよね。これぞ、気合やな。
まあ、仏陀のいう中道がこれなんだったら、あなた一体どんな苦行をしてきたんですか?といいたくなるような・・・。本当に自分を見つめるのは、しんどいね。痛みを受け入れること、全ての感覚に気づき反応や反発をなくしていく作業は、簡単そうに見えて、けっこうなもん。何回やっても非常に辛い。それをただ観察してただ気づいているだけやけども、なんちゅうかほんちゅうか(巨泉)・・・。痛みを受け入れてそのまま放っておく、涙も流れれば流れるままに、そしたらそれらは今だけのものであって永遠ではないことだと気づいていく。
蓮華座でずっと何日も木の下で瞑想した仏陀であるが、あの体勢でずっとおるには、体も心も開かれていたからに違いない。仏陀は絶対ヨギだったとわたしゃ思うわけさ。
私は、ヴィパッサナー瞑想をやって初めて「今まで私がやってきた瞑想って何やったんや?」って思った。それらはただの精神世界的自己逃避ゲームにすぎなかったんだと感じた。
肉体を使わずして、何も得るものはない。それは、体が心、感覚、精神・・・と、全てに繋がっているから。
よくヨガの記事に「痛みなくして得るもの無し」って書くけど、この瞑想の体験によることも含むかな。痛みってよくないことと思われるけど、実は、気持ちいいこととなんら変わりはない、表裏一体で、それらは結局はただの感覚にすぎない。何かの気持ちやら外部からの影響により、ただの感覚として自分の肉体の上に起こっている反応、生理的現象にすぎない、と、知れば、全てにおいて客観的に見えてきたりする。大波は小波に、感情の激しい起伏はニュートラルに穏やかになっていく。
なんでやってんのかって、誰のためでもない、自分のためであって、結局自分をよりよくするためなのよね。
だから、ART OF LIVING 「生きる技」って言われたりするんよね。
まあ、まだまだ私は煩悩が消えませんけどね(笑)。
ヴィパッサナー① 痛みは自分。
戻ってきました。
三回目の京都ヴィパッサナ10DAYS。
いつものように3日間、アーナパーナと呼ばれる自然な呼吸にだけ集中する。鼻の下あたりに意識を集中して、感覚を研ぎ澄ませる。自分自身の息だけにフォーカスしていく・・・。この方法を取って感覚を敏感にして、やっと4日目からヴィパッサナー瞑想に入る。
ヴィパッサナーは、自分の体の感覚に気づいていることを実践していく瞑想なので、マントラやヤントラなどは必要ではない。それがあれば容易に集中できるだろう・・・。しかし、あえてしない。必要ない。自分のありのままを受け入れるために。
自分の感覚。
痛み、痒み、暑さ、冷たさ、心地よさ・・・。
あらゆる感情には体の感覚が伴っている。
表裏一体である。
どんな感覚も平静な心を保って反応せずにただ座る。
五感を止めて、体の感覚を敏感にして。
言うは易し。
一時間、動かずに座ることってかなりツライ。
まあ、色々見えてきますわ。
テレビやネット、携帯は使わないし、喋らないから、情報は全く遮断されることで、今までの蓄積された情報が頭の中で展開していく。古い記憶、古傷が痛む。
ずっと座って、ヒザが痛くて、痛くて
この痛いのは一体何?!と思う。
そのうちに「痛み=自分自身」だと悟った。
そしたら、痛みはもはや痛みではない。
しかし、痛いものは痛い。
だけど、それも自分であると知れば、受け入れるしかないと観念したわけだ。痛みは自分。愛すべき自分。この痛みを受け入れないということは、自分自身を受け入れないことに等しいのだ。どんな自分もこの私を作っている一部。
完璧でない自分、中途半端な自分、カッコ悪い自分、それも自分。それが受け入れられなかった。
完璧な人はいないと頭ではわかっていた。
でも、全体的に理解していなかった。
「でも、それでいいのだ・・・。」
と、最後の日にやっとわかった。
自分の体を使って実践して、何日も経ってから
やっと、理解することができたような気がした。
2006年 04月 17日作成
三回目の京都ヴィパッサナ10DAYS。
いつものように3日間、アーナパーナと呼ばれる自然な呼吸にだけ集中する。鼻の下あたりに意識を集中して、感覚を研ぎ澄ませる。自分自身の息だけにフォーカスしていく・・・。この方法を取って感覚を敏感にして、やっと4日目からヴィパッサナー瞑想に入る。
ヴィパッサナーは、自分の体の感覚に気づいていることを実践していく瞑想なので、マントラやヤントラなどは必要ではない。それがあれば容易に集中できるだろう・・・。しかし、あえてしない。必要ない。自分のありのままを受け入れるために。
自分の感覚。
痛み、痒み、暑さ、冷たさ、心地よさ・・・。
あらゆる感情には体の感覚が伴っている。
表裏一体である。
どんな感覚も平静な心を保って反応せずにただ座る。
五感を止めて、体の感覚を敏感にして。
言うは易し。
一時間、動かずに座ることってかなりツライ。
まあ、色々見えてきますわ。
テレビやネット、携帯は使わないし、喋らないから、情報は全く遮断されることで、今までの蓄積された情報が頭の中で展開していく。古い記憶、古傷が痛む。
ずっと座って、ヒザが痛くて、痛くて
この痛いのは一体何?!と思う。
そのうちに「痛み=自分自身」だと悟った。
そしたら、痛みはもはや痛みではない。
しかし、痛いものは痛い。
だけど、それも自分であると知れば、受け入れるしかないと観念したわけだ。痛みは自分。愛すべき自分。この痛みを受け入れないということは、自分自身を受け入れないことに等しいのだ。どんな自分もこの私を作っている一部。
完璧でない自分、中途半端な自分、カッコ悪い自分、それも自分。それが受け入れられなかった。
完璧な人はいないと頭ではわかっていた。
でも、全体的に理解していなかった。
「でも、それでいいのだ・・・。」
と、最後の日にやっとわかった。
自分の体を使って実践して、何日も経ってから
やっと、理解することができたような気がした。
2006年 04月 17日作成
ヴィパッサナー②
痛みをもって、嫌悪を滅する。
心地よさをもって、執着を滅する。
何の感覚もないところによって、無知を滅する。
自分の体の一部一部の感覚を通して、ありのままの自分を見つめていくのであるが
自分の過去に外傷を負った部分も痛むことがある。
そして、その部分を感じることで、その当時の感覚にフラッシュバックする。
はっきりとよみがえってくる感覚と感情。
思い出したくないと、蓋をしていても、ニキビのように芯が浮いて出ようとする。
そして、それはまた出ようとして出てくる。
なくなるために出てくる。感情もDETOXしたい、されたいのだ。
そのように、全ての物事は、消えるために生まれてきているのである。
全ての感覚は語弊があるかもしれないが、「波動」といわれている。
波動と言えば、宗教チックな言葉のイメージとしてとらわれてしまいやすいが、
全ての感覚は、振動しているのである。
自らの振動を放射している。
脳波のアルファ波やシータ波といったように、○○波と同じく動きの波があるのだ。
紫外線(ULTRA VIOLET RAY)やX線(X-RAY)のようにRAY、光を放っている。
だから、波動というのだ。
感情にも波がある。
嫌悪の波動、渇望の波動・・・。
例えば・・・、「怒り」という例をあげてみることにしよう。
自分が怒りの気持ちでプリプリしていたら、周りが避けて行ったり、
そのせいで、誰かに当たってしまったりしたことがあると思う。
自分は怒りにまかせてしまって身動きがとれず、それが原因によって誰かに迷惑がかかっているなんて夢にも思わず。
その波動は回りに伝わって、自動的に、周りをも嫌な気持ちにさせてしまったり、
傷つけてしまったりしていることに気づかない。
そして、時には、それが自分にブーメランのように返ってきて
もっと自分をも傷つけてしまう結果になることがある。
だから、反応しないことがよい。
初めから、そんなんは無理にしても
怒りを人にぶつける前に
一呼吸置いて、怒っている自分を客観的に見る。
「あ、怒ってる自分がいるんだな」と。
そこを訓練をしていけば、
だんだんと怒る前に、ヤバそうなときに回避できてくる。
そして、最終的には怒りも反応せず、自分は怒らずに済むのである。
それも慣れであろう。
それには、まず自分の痛みを知らなければならない。
自分の痛みを知って、受け入れたときに一歩前進できるのだと思う。
一瞬で全てが変わりきってしまうミラクルはそうそうない。
(時には一瞬で全てが変わることもあるけれども)
徐々に徐々に少しずつ、変化していく、ゆっくりと。
今までのこの自分自身になるのに、今の年齢分の月日がかかっているように
変化もまた、ゆっくりと進む場合もある。少しずつ自分に合っているペースで進んでいく。
習慣は容易に変えることが難しい。
自分の今までの慣れ親しんだ部分に戻るのは簡単である。
しかし、これも訓練である。
同じものはない。
ずっとこうだったもの、も「変化」はまぬがれない。
全ては、変化している。移り変わっている。
自分が戻りたくない慣習には、戻らなくてもよいのだ。
自分が変われば、そこには自分はもういない。
なぜならば、そのステージを終えて、今は次にコマを自分で進めたからである。
2006年 04月 18日作成
心地よさをもって、執着を滅する。
何の感覚もないところによって、無知を滅する。
自分の体の一部一部の感覚を通して、ありのままの自分を見つめていくのであるが
自分の過去に外傷を負った部分も痛むことがある。
そして、その部分を感じることで、その当時の感覚にフラッシュバックする。
はっきりとよみがえってくる感覚と感情。
思い出したくないと、蓋をしていても、ニキビのように芯が浮いて出ようとする。
そして、それはまた出ようとして出てくる。
なくなるために出てくる。感情もDETOXしたい、されたいのだ。
そのように、全ての物事は、消えるために生まれてきているのである。
全ての感覚は語弊があるかもしれないが、「波動」といわれている。
波動と言えば、宗教チックな言葉のイメージとしてとらわれてしまいやすいが、
全ての感覚は、振動しているのである。
自らの振動を放射している。
脳波のアルファ波やシータ波といったように、○○波と同じく動きの波があるのだ。
紫外線(ULTRA VIOLET RAY)やX線(X-RAY)のようにRAY、光を放っている。
だから、波動というのだ。
感情にも波がある。
嫌悪の波動、渇望の波動・・・。
例えば・・・、「怒り」という例をあげてみることにしよう。
自分が怒りの気持ちでプリプリしていたら、周りが避けて行ったり、
そのせいで、誰かに当たってしまったりしたことがあると思う。
自分は怒りにまかせてしまって身動きがとれず、それが原因によって誰かに迷惑がかかっているなんて夢にも思わず。
その波動は回りに伝わって、自動的に、周りをも嫌な気持ちにさせてしまったり、
傷つけてしまったりしていることに気づかない。
そして、時には、それが自分にブーメランのように返ってきて
もっと自分をも傷つけてしまう結果になることがある。
だから、反応しないことがよい。
初めから、そんなんは無理にしても
怒りを人にぶつける前に
一呼吸置いて、怒っている自分を客観的に見る。
「あ、怒ってる自分がいるんだな」と。
そこを訓練をしていけば、
だんだんと怒る前に、ヤバそうなときに回避できてくる。
そして、最終的には怒りも反応せず、自分は怒らずに済むのである。
それも慣れであろう。
それには、まず自分の痛みを知らなければならない。
自分の痛みを知って、受け入れたときに一歩前進できるのだと思う。
一瞬で全てが変わりきってしまうミラクルはそうそうない。
(時には一瞬で全てが変わることもあるけれども)
徐々に徐々に少しずつ、変化していく、ゆっくりと。
今までのこの自分自身になるのに、今の年齢分の月日がかかっているように
変化もまた、ゆっくりと進む場合もある。少しずつ自分に合っているペースで進んでいく。
習慣は容易に変えることが難しい。
自分の今までの慣れ親しんだ部分に戻るのは簡単である。
しかし、これも訓練である。
同じものはない。
ずっとこうだったもの、も「変化」はまぬがれない。
全ては、変化している。移り変わっている。
自分が戻りたくない慣習には、戻らなくてもよいのだ。
自分が変われば、そこには自分はもういない。
なぜならば、そのステージを終えて、今は次にコマを自分で進めたからである。
2006年 04月 18日作成
ヴィパッサナって何?
ヴィパッサナ瞑想は、ブッダが実際に行っていた原始仏教の瞑想法で、ミャンマー・チベットなどのお寺ではこの瞑想で僧侶達は修行されているそうです。
VIPASSANA:ヴィパッサナー
古代パーリ語の単語で、VI(ヴィ)=ありのままに PASSANA(パサナー)=観察する という意味になります。
ヨガと同じで、まず呼吸に意識をあてることから始まります。
呼吸をしている、吸っている、吐いている、その感覚を意識し感じてみる、観察していくのです。吸っている息がどのように入ってくるのか、吐いている息がどのように通っていくのか、それはどういう感覚であるのか、体験していくのです。思考を入れずに。
自分の内側を見ていくということは、普段気づかない細かい部分を見ることでもあります。
瞑想していくうちにいろいろな感覚があることに気がつくでしょう。痛みや嫌悪感も出てきます。心地よくなる時もあります。その時、その感覚をそのままにして感じてみます。痛みはずっとは続きません、同様に心地いい感覚もその時だけ、次の瞬間にはまた違う感覚がめぐってくるのです。そうして、全ては移り変わっていくことを実際に体験する事により頭ではなく全体でわかっていくのです。
思考をとどめることは、ヨーガスートラにもある「チッタ ヴリッティ ニローダ(心の動きを抑止すること)」というヨガの考えと通じています。
ヴィパッサナ本について
http://myshop.esbooks.yahoo.co.jp/myshop/0000004185?shelf_id=03
去年、京都ダンマバーヌという丹波の方にあるセンターで10日間の修行を行いましたが、それは、10日間誰とも口をきかないというものでした。朝起きて瞑想、飯食ったら瞑想、休憩して瞑想、瞑想して瞑想、法話のテープを聴いてまた瞑想と、瞑想漬け10日間なんですが、人生の中でこんな10日間があってもいいな、と思いました。その10日で心が浄化されるんですから。
ヴィパッサナーができるとこ
VIPASSANA MEDITATION (ENG)
http://www.dhamma.org/
日本ヴィパッサナー協会
http://www.jp.dhamma.org/
日本テーラワーダ協会
http://www.j-theravada.net/11-jthera.html
<< 作成日時 : 2006/02/17 16:39 >>
VIPASSANA:ヴィパッサナー
古代パーリ語の単語で、VI(ヴィ)=ありのままに PASSANA(パサナー)=観察する という意味になります。
ヨガと同じで、まず呼吸に意識をあてることから始まります。
呼吸をしている、吸っている、吐いている、その感覚を意識し感じてみる、観察していくのです。吸っている息がどのように入ってくるのか、吐いている息がどのように通っていくのか、それはどういう感覚であるのか、体験していくのです。思考を入れずに。
自分の内側を見ていくということは、普段気づかない細かい部分を見ることでもあります。
瞑想していくうちにいろいろな感覚があることに気がつくでしょう。痛みや嫌悪感も出てきます。心地よくなる時もあります。その時、その感覚をそのままにして感じてみます。痛みはずっとは続きません、同様に心地いい感覚もその時だけ、次の瞬間にはまた違う感覚がめぐってくるのです。そうして、全ては移り変わっていくことを実際に体験する事により頭ではなく全体でわかっていくのです。
思考をとどめることは、ヨーガスートラにもある「チッタ ヴリッティ ニローダ(心の動きを抑止すること)」というヨガの考えと通じています。
ヴィパッサナ本について
http://myshop.esbooks.yahoo.co.jp/myshop/0000004185?shelf_id=03
去年、京都ダンマバーヌという丹波の方にあるセンターで10日間の修行を行いましたが、それは、10日間誰とも口をきかないというものでした。朝起きて瞑想、飯食ったら瞑想、休憩して瞑想、瞑想して瞑想、法話のテープを聴いてまた瞑想と、瞑想漬け10日間なんですが、人生の中でこんな10日間があってもいいな、と思いました。その10日で心が浄化されるんですから。
ヴィパッサナーができるとこ
VIPASSANA MEDITATION (ENG)
http://www.dhamma.org/
日本ヴィパッサナー協会
http://www.jp.dhamma.org/
日本テーラワーダ協会
http://www.j-theravada.net/11-jthera.html
<< 作成日時 : 2006/02/17 16:39 >>
瞑想は浄化
座り、目を閉じて、呼吸する。
いろんなことが浮かんでくる。
浮かんでは消えていく。
浄化していく。
潜在意識から肉体に現れてくることもある。
痛みとして、痒みとして、いろいろな感覚として。
目を閉じていても、眩しいような光を感じることもある。
暖かさ、安らぎを感じることもある。
何気ないひと時。あってもなくても同じように思うかもしれないけど、
瞑想するのとしないのとでは、その日一日が全然違うものになる。
自分の中を整理して、クリアにする作業。
自分が充電されて、元気になっていける。
すればするほどに、ニュートラルでいれる時間が長くなっていく気がする。
ただ目を閉じて座るだけに、何分か、何十分か、何時間か・・・、集中する。
その時間は貴重で贅沢だ。それは自分にとっての一番のギフトかもしれない。
いろんな人にオススメしたい。瞑想と書けばたいそうだが、ただ目を閉じて座って集中する時間を持つこと。それだけで、自分が徐々にいい風になっていくのが感じれると思う。怖くはないので、いっぺんどうぞ。
2007年 01月 19日 BMCより
いろんなことが浮かんでくる。
浮かんでは消えていく。
浄化していく。
潜在意識から肉体に現れてくることもある。
痛みとして、痒みとして、いろいろな感覚として。
目を閉じていても、眩しいような光を感じることもある。
暖かさ、安らぎを感じることもある。
何気ないひと時。あってもなくても同じように思うかもしれないけど、
瞑想するのとしないのとでは、その日一日が全然違うものになる。
自分の中を整理して、クリアにする作業。
自分が充電されて、元気になっていける。
すればするほどに、ニュートラルでいれる時間が長くなっていく気がする。
ただ目を閉じて座るだけに、何分か、何十分か、何時間か・・・、集中する。
その時間は貴重で贅沢だ。それは自分にとっての一番のギフトかもしれない。
いろんな人にオススメしたい。瞑想と書けばたいそうだが、ただ目を閉じて座って集中する時間を持つこと。それだけで、自分が徐々にいい風になっていくのが感じれると思う。怖くはないので、いっぺんどうぞ。
2007年 01月 19日 BMCより
瞑想について想う
瞑想って何でするんかな~、とか思うこともあったりするけれども、やった日・やらない日は、多少違う気がしている。
いろんな瞑想法があって、○○式だの何だのと色々流派のようなのがある。でも、基本は全部同じと思う。
ただ、気持ちを静めてじっと座っていること。ただそれだけ。
それだけなのに、いろいろとあるのが瞑想かも、と思う。
じっとするには集中力がいるし、心とはうるさいものでずっと鳴りっぱなしのラジオのようなもんだ(壊れかけのRadio~♪って歌あったよね)。
「瞑想」とバンと書いちゃうと、なんだかカルトっぽくアヤシゲに聞こえたりもするかもしれない。マインドコントロールされんのとちゃう?とか、いろいろな不安が来るのかも・・・。でも、瞑想って、自分だけの時間を作って自分だけのためにやるとっても贅沢なリラックス法だとわしゃ思う。
日々自分で行うのであれば、別にマントラを唱えないといけないわけでもなし、ろうそくの炎を見つめないといけないわけでもなし、金もいらんし、グルもいらんのだ(だって自分が自分の先生なんだから)。
無になることが大事というけど、瞑想中にいろいろひらめいて、無にならなくてもプラスになることだってたくさんあったりもする。ただ座って、いろいろ考えて考えをまとめているだけっていうことにもなるけど、なかなか日中忙しいとそれもできにくい。考えをまとめて整理していらんものを捨てていく作業でもあると思う。そしていろんなもんを捨て切れば、きっとそこに無があるのかもしれない。
自分を客観視することでもある。自分を見れば、他人も見えてくるわけで、自分に優しくできれば、他人にも優しくできる。ほんで、気持ちが穏やかになってくるわけで。
ず~っと座ってたら、体は痛いところも出てくる。でも、その痛みがあるっていう事実を受け入れたら、嫌悪感もなくなったりしていくのである。
ただ座っている中にでも、宇宙的なものが含まれているんでしょうね、不思議。
<< 作成日時 : 2006/02/17 16:39 >>
いろんな瞑想法があって、○○式だの何だのと色々流派のようなのがある。でも、基本は全部同じと思う。
ただ、気持ちを静めてじっと座っていること。ただそれだけ。
それだけなのに、いろいろとあるのが瞑想かも、と思う。
じっとするには集中力がいるし、心とはうるさいものでずっと鳴りっぱなしのラジオのようなもんだ(壊れかけのRadio~♪って歌あったよね)。
「瞑想」とバンと書いちゃうと、なんだかカルトっぽくアヤシゲに聞こえたりもするかもしれない。マインドコントロールされんのとちゃう?とか、いろいろな不安が来るのかも・・・。でも、瞑想って、自分だけの時間を作って自分だけのためにやるとっても贅沢なリラックス法だとわしゃ思う。
日々自分で行うのであれば、別にマントラを唱えないといけないわけでもなし、ろうそくの炎を見つめないといけないわけでもなし、金もいらんし、グルもいらんのだ(だって自分が自分の先生なんだから)。
無になることが大事というけど、瞑想中にいろいろひらめいて、無にならなくてもプラスになることだってたくさんあったりもする。ただ座って、いろいろ考えて考えをまとめているだけっていうことにもなるけど、なかなか日中忙しいとそれもできにくい。考えをまとめて整理していらんものを捨てていく作業でもあると思う。そしていろんなもんを捨て切れば、きっとそこに無があるのかもしれない。
自分を客観視することでもある。自分を見れば、他人も見えてくるわけで、自分に優しくできれば、他人にも優しくできる。ほんで、気持ちが穏やかになってくるわけで。
ず~っと座ってたら、体は痛いところも出てくる。でも、その痛みがあるっていう事実を受け入れたら、嫌悪感もなくなったりしていくのである。
ただ座っている中にでも、宇宙的なものが含まれているんでしょうね、不思議。
<< 作成日時 : 2006/02/17 16:39 >>
< 前のページ次のページ >

