滋賀県大津市 ヨガセラピー/プライベートのヨガレッスン/出張でのレッスンを行っています。
by mandala-2
リンク
カテゴリ
全体レッスンお申し込み
プロフィール
要約ヨーガセラピー
マンダラ著
ヨガ語録
ヨガ話
旧・ヨガ話
ヨガのポーズ
瞑想
月
マントラ&サンスクリット
バンダ
ヨガウェア&グッズ
カルマヨガ
八枝則とチャクラ
ヨガアサナ占い
イベント
スケジュール
お気に入りブログ
検索
ネームカード
以前の記事
2011年 12月2011年 05月
2011年 03月
2011年 02月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 03月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
ファン
カテゴリ:マントラ&サンスクリット
- SHANTI MANTRAで学ぶサンスクリット④[ 2008-03-04 00:05 ]
- SHANTI MANTRAで学ぶサンスクリット③[ 2008-02-06 20:06 ]
- YOGA SUTRA 1:28[ 2008-01-26 00:44 ]
- Om, back to the roots.[ 2008-01-22 20:08 ]
- SHANTI MANTRAで学ぶサンスクリット①[ 2008-01-22 15:06 ]
- ぷんなまだ、ぷんなみだん。[ 2008-01-15 02:09 ]
- オームカーラ[ 2008-01-13 04:44 ]
- Santi mantra さはなーばばとぅ[ 2008-01-11 00:10 ]
- yoga chitta vritti nirodha/サンスクリットの学び[ 2008-01-09 20:09 ]
- SHANTI MANTRAで学ぶサンスクリット②[ 2008-01-06 15:59 ]
SHANTI MANTRAで学ぶサンスクリット④
purnamadah purnamidam purnaat purnamudachyate
purnasya purnaamadaya purnameva vashishyate.
Om Shanti, shanti, shantih.
This is perfect. That is perfect.
From the perfect springs the perfect.
Take the perfect from the perfect and
only the perfect remains.
May there be peace, peace, peace.
それは完全(絶対)なもの これも完全であり、完全は完全より生じる
もしも完全から完全を取り去れば、後には完全のみが残される
オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずっとプルナ、プルナとプルナについて語っているが、いささか屁理屈っぽくもあり、
哲学っぽくもあり、まるで禅問答のようなマントラである。
PremalのDakshinaというアルバムに入っているので、ヨガ人は、聞いた事もあるかと思う。
で、プルナって何なんだ、ヨガナンダ?
そして、ナツカシの「それも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛♪」という歌を思い出したわけである。
【 Purna 】
Abusolute,complete,perfect,full,wholeness: 完全なるもの
・purnah [nominative, masculine], the perfect being.
・purnam [nominative, neuter], fullness.
完全で絶対的な存在とは・・・。
それは、Brahma(ブラフマ、ブラーマ)である。
ブラフマとは? 宇宙であり、神であり、至高であり、それは何と呼んでも、どんな形でもブラフマには変わりがない。宇宙=あなたであり、神=あなたであり、至高なるあなたである。
そして、私達の全ては「それ」である。なぜならば、私達は皆つながっているのだから。私達は一部であり、全体である。須藤元気君も言っている、「We are all one.」と。まさにその通り、私達はひとつであり、ワンネスを感じるために存在している。
あれもこれも「完全なるもの(全てを含むもの)」で、また違うところからぽっと「完全なるもの」の破片が現れる。「それ」が現れた、消えた、それでも「それ」は完全なるものだから、破片だとしても完全で完璧なものの一部として存在し続けている。無限に広がる宇宙のごとく。もしくは、アメーバのように。
もうちょっとわかりやすく、水に例えてみよう。水滴だろうと大河になろうと、水は水である。
だから、完全から完全をとってみても、それは無限の宇宙の源(完全)であり、ずっと完全なるエネルギーに満ち満ちているのである。
=purnasya purnaamadaya purnameva vashishyate.
宇宙は静寂が広がっているようで振動している、それこそがOm(宇宙の振動音)であり、全ての始まりである。それは完璧な宇宙の法則により成り立っている。それは、完璧で完全なのだ。
その大いなるものはPurnaであり、この自分自身もPurnaである。
=purnamadah purnamidam
その大いなる宇宙の完全なるものは、あなたの内側に完全なるものを植えつける。
完全なるものに触れたならば、エゴは溶けて完全なるものへと変容することであろう。
=purnaat purnamudachyate
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このマントラについて考えあぐねて、ふと思ったことは、自分でリミットをつけてみたり、飢餓感を感じてみたり、はたまた強欲になってみたり、嫉妬や不安にかられたり、そんなことは無駄なことなのかもしれない、ということ。それを感じることが向上するキッカケであればいいけれど、それが負のスパイラルに陥るキッカケにもなってはどうしようもない。
宇宙が無限なのならば、私達は日々満ち満ちた感覚でいた方が良さそうというものだ。全てはPurnaであると知ったならば。
結局は、みんな同じことを言っているのだ、Secret(本)も、キリストも、ブッダも、その他も・・・。全ての真理はひとつであり、全てはPurnaである。全て同じ山に登っているが、ただ頂上へ行く道順や方法が違うだけである。どの道も正解で、どの道も全てに通じる道である。ただそこにはあなたのPurnaが目に映っているだけである。
purnasya purnaamadaya purnameva vashishyate.
Om Shanti, shanti, shantih.
This is perfect. That is perfect.
From the perfect springs the perfect.
Take the perfect from the perfect and
only the perfect remains.
May there be peace, peace, peace.
それは完全(絶対)なもの これも完全であり、完全は完全より生じる
もしも完全から完全を取り去れば、後には完全のみが残される
オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずっとプルナ、プルナとプルナについて語っているが、いささか屁理屈っぽくもあり、
哲学っぽくもあり、まるで禅問答のようなマントラである。
PremalのDakshinaというアルバムに入っているので、ヨガ人は、聞いた事もあるかと思う。
で、プルナって何なんだ、ヨガナンダ?
そして、ナツカシの「それも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛♪」という歌を思い出したわけである。
【 Purna 】
Abusolute,complete,perfect,full,wholeness: 完全なるもの
・purnah [nominative, masculine], the perfect being.
・purnam [nominative, neuter], fullness.
完全で絶対的な存在とは・・・。
それは、Brahma(ブラフマ、ブラーマ)である。
ブラフマとは? 宇宙であり、神であり、至高であり、それは何と呼んでも、どんな形でもブラフマには変わりがない。宇宙=あなたであり、神=あなたであり、至高なるあなたである。
そして、私達の全ては「それ」である。なぜならば、私達は皆つながっているのだから。私達は一部であり、全体である。須藤元気君も言っている、「We are all one.」と。まさにその通り、私達はひとつであり、ワンネスを感じるために存在している。
あれもこれも「完全なるもの(全てを含むもの)」で、また違うところからぽっと「完全なるもの」の破片が現れる。「それ」が現れた、消えた、それでも「それ」は完全なるものだから、破片だとしても完全で完璧なものの一部として存在し続けている。無限に広がる宇宙のごとく。もしくは、アメーバのように。
もうちょっとわかりやすく、水に例えてみよう。水滴だろうと大河になろうと、水は水である。
だから、完全から完全をとってみても、それは無限の宇宙の源(完全)であり、ずっと完全なるエネルギーに満ち満ちているのである。
=purnasya purnaamadaya purnameva vashishyate.
宇宙は静寂が広がっているようで振動している、それこそがOm(宇宙の振動音)であり、全ての始まりである。それは完璧な宇宙の法則により成り立っている。それは、完璧で完全なのだ。
その大いなるものはPurnaであり、この自分自身もPurnaである。
=purnamadah purnamidam
その大いなる宇宙の完全なるものは、あなたの内側に完全なるものを植えつける。
完全なるものに触れたならば、エゴは溶けて完全なるものへと変容することであろう。
=purnaat purnamudachyate
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このマントラについて考えあぐねて、ふと思ったことは、自分でリミットをつけてみたり、飢餓感を感じてみたり、はたまた強欲になってみたり、嫉妬や不安にかられたり、そんなことは無駄なことなのかもしれない、ということ。それを感じることが向上するキッカケであればいいけれど、それが負のスパイラルに陥るキッカケにもなってはどうしようもない。
宇宙が無限なのならば、私達は日々満ち満ちた感覚でいた方が良さそうというものだ。全てはPurnaであると知ったならば。
結局は、みんな同じことを言っているのだ、Secret(本)も、キリストも、ブッダも、その他も・・・。全ての真理はひとつであり、全てはPurnaである。全て同じ山に登っているが、ただ頂上へ行く道順や方法が違うだけである。どの道も正解で、どの道も全てに通じる道である。ただそこにはあなたのPurnaが目に映っているだけである。
SHANTI MANTRAで学ぶサンスクリット③
ヨガでは定番のサハナーババトゥです。平和と調和、ユニティ(ワンネス)を唱えているマントラで、カタウパニシャッドの冒頭に書かれているとあります。
Om Sahana vavatu 私たちが守られますように
Sahanau Bhunaktu 私たちが栄養を頂くことが出来ますように
Saha Veryam Karavavahai 私たちが元気に働くことが出来ますように
Tejasvi navadhetamastu 私たちの学びが輝かしいものでありますように
Maa vid vishavahai 私たちが互いに争うことがありませんように
Om Shanti Shanti Shantih オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
Guru=お師匠はんと、Shisya=お弟子さんの歌です。
インドでは、お弟子さんは師匠の家に住み込んで生活を一緒にしていく中でいろんな事を学んでいくというスタンスが伝統的です。(グルクラという言葉で呼ばれているシステム)。日本では、漫才師や落語家のお弟子さんやお寺さんは今もそうですが。
ですので、グルクラのようなかなり近しい(+厳しい)弟子と師匠の関係において、このマントラを唱えられることはかなり深味があるのではないかと思います。
かなり深味にハマって説明していますので、長いです。では、どうぞ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
①一番目のパラグラフ
Saha -na-vavatu (サハナーババトゥ ← サハ ナウ アバトゥ)
私たちが守られますように
・Saha :together 共に、互いに
・nau:us
・vavatu=avatu :protected 守られる、恩恵を与えて頂く
vavatuもよくマントラに出てくる単語。恩恵をもたらしてくれる何かに感謝と畏敬の念を持ち、祈っているのであろう。何によって守られるのか・・・。それは、Brahma(宇宙、神)によって。その部分の主語として、Brahmaという文字として出てはこないが、三人称になっているため、Brahmaによってということが推測可能になっているとのこと。今やほぼ無宗教の日本では神という概念がかなり胡散臭げに感じるでしょうが、インドでのそれは絶対なるものなのでしょう。その部分については、いくら無宗教でもリスペクトを持ってあげることが大切でしょう。(それが異文化コミュニケーションですな。)
②二番目のパラグラフ
Saha-nau-bhunaktu (サハ ナウ ブナットゥ)
私たちが栄養を頂くことが出来ますように
・bunaktu:enjoy,eat 健やかであること
eatといってもただ単に食べ物を食べることだけではなく、魂や心の栄養として、プラサード(神への捧げもの)として、頂くことを意味するのだと思う。
弟子は知識や知恵を頂く。師は教えることでまた学んでいる。互いが健やかであり、共に楽しみ、共に食し、知識と知恵を循環させていく。
③三番目のパラグラフ
Saha-viryam-karavavahai (サハ ヴィーリャン カラバーバヘイ)
私たちが元気に働くことが出来ますように
・viryam:vital energy, force,courage 活力、力、勇気、強さ
・karavavahai:do, deed する 行為 行い
ただ単に元気に働くというよりは、私たちに本当の意味での強さを与えてもらい、知恵を使って、それを理解していくことだ。心が弱ければ、相手を理解できえない、物事を昇華(消化)できないだろう。体が弱まれば、何よりも先に養生が必要である。それにはまず、心身共に健やかなることが大切である。
学ぶ、教える、共に協力し合いながら、何かを成し遂げるという同じ志を持ち、より強くなれるのである。
④四番目のパラグラフ
Tejasvi na (v)adhetam astu (テージャスヴィ ナアバティタマストゥ)
私たちの学びが輝かしいものでありますように
・Tejasvi :輝かしい
・adhitam :(アディッターン)学ぶ
・astu=let it be :~である
ヴィパッサナー瞑想でテープから流れてくる「adhitam,adhitam・・・(努めなさい、一生懸命に努めなさい)」という言葉を思い出す。仏陀も弟子達に瞑想法を伝授する際、または教えを授けていく際に言っていたのだろう。adhitam、と。
前に進むには、精進するには、自ら努め、adhitamする他に道はない。だからこその、adhitam=学び、なのである。ヨガにはコツはあれど、残念ながら近道はない。ヨガは人生そのものであるから。枝の先に輝くヨガの果実は、自らもぎ取らなければならない、ということ。インスタントな悟りなんてない。
例えば、カリスマ・パティシエのところへ行って、「私もパティシエになりたいので、あなたのケーキのレシピを教えてください。」と言ったところで、すぐには教えてはくれないはずである。そのパティシエもまた、何年もかかり、様々な苦難も乗り越えてそこに至ったのだ。「アホか、失礼な!なんで、ぽっと出の輩にホイホイとレシピを教えなあかんのだ?」と言われるのがオチだろう。(正論ですわな、しかし、世の中にはこういうことがいっぱい。) 本当に得たいなら、自らでその道を歩くことである。宝石が輝くにはいくつもの傷をつけて研磨するように、栄光というのは茨の道をもいとわないViryam(強さ)を持った者だけが頂けるギフトなのである。
⑤5番目のパラグラフ
Maa vid vishavahai (マー ヴィッ ヴィシャーヴァヘイ)
私たちが互いに争うことがありませんように
・ma :~なかれ
・vid :to know, to see 知る、見る (VippasanaのViでしょうねえ、きっと。)
・vishavahai :misunderstand,hatred 誤解、憎む、嫌う
光に満ち溢れ、幸せでありますように、
たとえ挫けそうになっても、何が起こっても、誘惑に負けそうになっても。
残念ながら、偏見や疑いなどの無知よって人の心は閉ざされてしまう。互いに違うことを受け入れることが出来ずにどちらが正しいのかと善悪を決めたくて争いが起こる。だから戦争がなくならないのであろう。敵対や報復は恨みしか生みださないから、終わりがない。ふたつはSplit(分裂)してしまい、ひとつにはなることがない。
人は他人の優しさによって初めて自分の内なる優しさを知るのである。ふたつはUnite(統合、調和)され、ひとつになれるのだ。
許す心を大きく持ち、相手を受け入れていくこと。師匠もまた人間であり、完璧ではない。弟子もまた完璧ではないからこそ学んでいる。波立った水面には、月がその形を写さないのと同じで、真実は漂流していては見えてはこない。(グルクラシステムでは、師匠と生活を長期間共に行い、弟子はどっぷりと師匠のいい面も嫌な面も受け入れ、深くその人となりを知って初めて成長していくものである。表面だけでは何も得ることはなかろう。)
月を写す闇夜の水面のように、人というのはあなたの鏡である。敵だと思い込む相手の中に、あなた自身が写っているだろう。敵は本能寺にはあらず、自分自身の内にあり。
このマントラに出てくる師弟関係ではなく、例えどんな関係であろうと、互いに相手の立場を思いやり、疑問を持った時であっても自分がどう振舞うかで関係性は変わってくるのかもしれない。親子関係、夫婦関係、友達関係でも同じである。ケンカしながらでもハラを割って付き合える人というのは本当に貴重な相手であり、感謝すべき存在なのだ。
だからこそのSHANTI 三回、
だからこそのSHANTI MANTRA なのである。
決して他者からやらされてるんではなく、あなた自身があなたのコントローラーであり、エンターテイナーであり、主である。あなた自身がその手で幸せを、楽しみを、学びを、調和を、心の平安を、SHANTIを作り出すのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Om Sahana vavatu 私たちが守られますように
Sahanau Bhunaktu 私たちが栄養を頂くことが出来ますように
Saha Veryam Karavavahai 私たちが元気に働くことが出来ますように
Tejasvi navadhetamastu 私たちの学びが輝かしいものでありますように
Maa vid vishavahai 私たちが互いに争うことがありませんように
Om Shanti Shanti Shantih オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
Guru=お師匠はんと、Shisya=お弟子さんの歌です。
インドでは、お弟子さんは師匠の家に住み込んで生活を一緒にしていく中でいろんな事を学んでいくというスタンスが伝統的です。(グルクラという言葉で呼ばれているシステム)。日本では、漫才師や落語家のお弟子さんやお寺さんは今もそうですが。
ですので、グルクラのようなかなり近しい(+厳しい)弟子と師匠の関係において、このマントラを唱えられることはかなり深味があるのではないかと思います。
かなり深味にハマって説明していますので、長いです。では、どうぞ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
①一番目のパラグラフ
Saha -na-vavatu (サハナーババトゥ ← サハ ナウ アバトゥ)
私たちが守られますように
・Saha :together 共に、互いに
・nau:us
・vavatu=avatu :protected 守られる、恩恵を与えて頂く
vavatuもよくマントラに出てくる単語。恩恵をもたらしてくれる何かに感謝と畏敬の念を持ち、祈っているのであろう。何によって守られるのか・・・。それは、Brahma(宇宙、神)によって。その部分の主語として、Brahmaという文字として出てはこないが、三人称になっているため、Brahmaによってということが推測可能になっているとのこと。今やほぼ無宗教の日本では神という概念がかなり胡散臭げに感じるでしょうが、インドでのそれは絶対なるものなのでしょう。その部分については、いくら無宗教でもリスペクトを持ってあげることが大切でしょう。(それが異文化コミュニケーションですな。)
②二番目のパラグラフ
Saha-nau-bhunaktu (サハ ナウ ブナットゥ)
私たちが栄養を頂くことが出来ますように
・bunaktu:enjoy,eat 健やかであること
eatといってもただ単に食べ物を食べることだけではなく、魂や心の栄養として、プラサード(神への捧げもの)として、頂くことを意味するのだと思う。
弟子は知識や知恵を頂く。師は教えることでまた学んでいる。互いが健やかであり、共に楽しみ、共に食し、知識と知恵を循環させていく。
③三番目のパラグラフ
Saha-viryam-karavavahai (サハ ヴィーリャン カラバーバヘイ)
私たちが元気に働くことが出来ますように
・viryam:vital energy, force,courage 活力、力、勇気、強さ
・karavavahai:do, deed する 行為 行い
ただ単に元気に働くというよりは、私たちに本当の意味での強さを与えてもらい、知恵を使って、それを理解していくことだ。心が弱ければ、相手を理解できえない、物事を昇華(消化)できないだろう。体が弱まれば、何よりも先に養生が必要である。それにはまず、心身共に健やかなることが大切である。
学ぶ、教える、共に協力し合いながら、何かを成し遂げるという同じ志を持ち、より強くなれるのである。
④四番目のパラグラフ
Tejasvi na (v)adhetam astu (テージャスヴィ ナアバティタマストゥ)
私たちの学びが輝かしいものでありますように
・Tejasvi :輝かしい
・adhitam :(アディッターン)学ぶ
・astu=let it be :~である
ヴィパッサナー瞑想でテープから流れてくる「adhitam,adhitam・・・(努めなさい、一生懸命に努めなさい)」という言葉を思い出す。仏陀も弟子達に瞑想法を伝授する際、または教えを授けていく際に言っていたのだろう。adhitam、と。
前に進むには、精進するには、自ら努め、adhitamする他に道はない。だからこその、adhitam=学び、なのである。ヨガにはコツはあれど、残念ながら近道はない。ヨガは人生そのものであるから。枝の先に輝くヨガの果実は、自らもぎ取らなければならない、ということ。インスタントな悟りなんてない。
例えば、カリスマ・パティシエのところへ行って、「私もパティシエになりたいので、あなたのケーキのレシピを教えてください。」と言ったところで、すぐには教えてはくれないはずである。そのパティシエもまた、何年もかかり、様々な苦難も乗り越えてそこに至ったのだ。「アホか、失礼な!なんで、ぽっと出の輩にホイホイとレシピを教えなあかんのだ?」と言われるのがオチだろう。(正論ですわな、しかし、世の中にはこういうことがいっぱい。) 本当に得たいなら、自らでその道を歩くことである。宝石が輝くにはいくつもの傷をつけて研磨するように、栄光というのは茨の道をもいとわないViryam(強さ)を持った者だけが頂けるギフトなのである。
⑤5番目のパラグラフ
Maa vid vishavahai (マー ヴィッ ヴィシャーヴァヘイ)
私たちが互いに争うことがありませんように
・ma :~なかれ
・vid :to know, to see 知る、見る (VippasanaのViでしょうねえ、きっと。)
・vishavahai :misunderstand,hatred 誤解、憎む、嫌う
光に満ち溢れ、幸せでありますように、
たとえ挫けそうになっても、何が起こっても、誘惑に負けそうになっても。
残念ながら、偏見や疑いなどの無知よって人の心は閉ざされてしまう。互いに違うことを受け入れることが出来ずにどちらが正しいのかと善悪を決めたくて争いが起こる。だから戦争がなくならないのであろう。敵対や報復は恨みしか生みださないから、終わりがない。ふたつはSplit(分裂)してしまい、ひとつにはなることがない。
人は他人の優しさによって初めて自分の内なる優しさを知るのである。ふたつはUnite(統合、調和)され、ひとつになれるのだ。
許す心を大きく持ち、相手を受け入れていくこと。師匠もまた人間であり、完璧ではない。弟子もまた完璧ではないからこそ学んでいる。波立った水面には、月がその形を写さないのと同じで、真実は漂流していては見えてはこない。(グルクラシステムでは、師匠と生活を長期間共に行い、弟子はどっぷりと師匠のいい面も嫌な面も受け入れ、深くその人となりを知って初めて成長していくものである。表面だけでは何も得ることはなかろう。)
月を写す闇夜の水面のように、人というのはあなたの鏡である。敵だと思い込む相手の中に、あなた自身が写っているだろう。敵は本能寺にはあらず、自分自身の内にあり。
このマントラに出てくる師弟関係ではなく、例えどんな関係であろうと、互いに相手の立場を思いやり、疑問を持った時であっても自分がどう振舞うかで関係性は変わってくるのかもしれない。親子関係、夫婦関係、友達関係でも同じである。ケンカしながらでもハラを割って付き合える人というのは本当に貴重な相手であり、感謝すべき存在なのだ。
だからこそのSHANTI 三回、
だからこそのSHANTI MANTRA なのである。
決して他者からやらされてるんではなく、あなた自身があなたのコントローラーであり、エンターテイナーであり、主である。あなた自身がその手で幸せを、楽しみを、学びを、調和を、心の平安を、SHANTIを作り出すのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
YOGA SUTRA 1:28
TAJJIAPAS TADARTHA BHAVANAM.
意味を熟慮しつつ、それを反復ジュ唱するがよい。
それってのは、Omのこと。
これは、スートラの1章28節であるが、この文章以前のものに
Omの説明がなされている。その後に続くのがこの文章。
Omをジャパ(繰り返し唱えること)して、その意味をじっくり考えることだと説く。
インドじゃあ、だいたいの先生が同じくやることに、とりあえず意味わからなくてもいいから、
サンスクリットのマントラを聞いたとおりに弟子に言わせるようにする、ということがある。
それはきっと弟子にその言葉は何と言っているのか、どういう意味なのか、どういう意図があるのかなどを後々自分で考えさせるように仕向けるためだと思う。
一から十まで全部を教えてもらうのではなく、自分で果実を手に取って口に含み、噛み砕かなければ、自分で消化ができない。そうして、自分で実践し体験してはじめて、身によくつく(NOV●?)のである。
この言葉以外にもいろんなマントラがあるが、全てのマントラの始まりであり、終わりであり、宇宙の始まりであり、終わりであるOmをジャパすることは基本だということだろうか。
意味を熟慮しつつ、それを反復ジュ唱するがよい。
それってのは、Omのこと。
これは、スートラの1章28節であるが、この文章以前のものに
Omの説明がなされている。その後に続くのがこの文章。
Omをジャパ(繰り返し唱えること)して、その意味をじっくり考えることだと説く。
インドじゃあ、だいたいの先生が同じくやることに、とりあえず意味わからなくてもいいから、
サンスクリットのマントラを聞いたとおりに弟子に言わせるようにする、ということがある。
それはきっと弟子にその言葉は何と言っているのか、どういう意味なのか、どういう意図があるのかなどを後々自分で考えさせるように仕向けるためだと思う。
一から十まで全部を教えてもらうのではなく、自分で果実を手に取って口に含み、噛み砕かなければ、自分で消化ができない。そうして、自分で実践し体験してはじめて、身によくつく(NOV●?)のである。
この言葉以外にもいろんなマントラがあるが、全てのマントラの始まりであり、終わりであり、宇宙の始まりであり、終わりであるOmをジャパすることは基本だということだろうか。
Om, back to the roots.
「私は水における味である。私は月と太陽における光である。すべてのヴェーダにおける聖音(オーム)である。空における音、人間における雄々しさである。私はまた地における芳香であり、火における光輝である。万物における生命であり、苦行者における熱力である。」
バガヴァッドギーター/上村勝彦訳
「イーシュヴァラ(神)をことばで表したものが、神秘音オームである。」
インテグラルヨーガ/スワミサッチダーナンダ著
OMって何?
至高の存在をいう、それを神と言おうが、宇宙と言おうが、何と呼ぼうと自由だー。
OM IS FREEDOM~(×2)♪ By 犬井ヒロシに扮するサバンナ高橋。
スワミジも言っていた、どんな名前であれ、どんな形であれ、全てはひとつなのだと。
聖者パタンジャリも、仏陀もずうっと瞑想し、そしてついに聞いてしまった。
アナハタ・ナーダ、耳では聞こえない、心で聞く宇宙のサウンド、ヴァイブレーションを。
それが、振動の音である。Mmmmmm・・・・。
しかし、これをどう説明するのかということで、名前がないと理解しにくい。
Mmmでは言いにくいから、Omと呼んだそうな。
「オームはプラナヴァと呼ばれ、それはただ『ブーン』といううなりのことである」
インテグラルヨーガ/スワミサッチダーナンダ著
「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. /
はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり。」
聖書もこう言っている。だから、OM=AUMは、アーメンと同じだ。
日本でも真言として、オンと言う。そして口に出して言わずでも、お寺の鐘の音を通して、Mmm=Omとヴァイブさせている。
ん~~。
バガヴァッドギーター/上村勝彦訳
「イーシュヴァラ(神)をことばで表したものが、神秘音オームである。」
インテグラルヨーガ/スワミサッチダーナンダ著
OMって何?
至高の存在をいう、それを神と言おうが、宇宙と言おうが、何と呼ぼうと自由だー。
OM IS FREEDOM~(×2)♪ By 犬井ヒロシに扮するサバンナ高橋。
スワミジも言っていた、どんな名前であれ、どんな形であれ、全てはひとつなのだと。
聖者パタンジャリも、仏陀もずうっと瞑想し、そしてついに聞いてしまった。
アナハタ・ナーダ、耳では聞こえない、心で聞く宇宙のサウンド、ヴァイブレーションを。
それが、振動の音である。Mmmmmm・・・・。
しかし、これをどう説明するのかということで、名前がないと理解しにくい。
Mmmでは言いにくいから、Omと呼んだそうな。
「オームはプラナヴァと呼ばれ、それはただ『ブーン』といううなりのことである」
インテグラルヨーガ/スワミサッチダーナンダ著
「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. /
はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり。」
聖書もこう言っている。だから、OM=AUMは、アーメンと同じだ。
日本でも真言として、オンと言う。そして口に出して言わずでも、お寺の鐘の音を通して、Mmm=Omとヴァイブさせている。
ん~~。
SHANTI MANTRAで学ぶサンスクリット①
ヨギなので、インド哲学的背景でも知ろうと思えば、サンスクリットを避けて通れないな、
と思う今日この頃。
ここではサンスクリットの単語や意味を少しくわしく見ていくことにしよう。
私もサンスクリットビギナーである。
ブログをご覧の方でサンスクリットは詳しい!っていう方は手を上げて下さい。
(って、みえへんし、笑) ほんで、教えてもらえたら嬉しいです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
SHANTI MANTRA とは 「PEACE MANTRA」という意味で、平和のマントラという和訳になる。ヴェーダ(教典、経典)の中にある文章で、ヒンドゥーの宗教的な儀式や講和にて詠唱される伝統的なものである。
SHANTI MANTRAはウパニシャッドの中に見られる祈りの言葉で、唱える人や唱える人の周り(環境)に落ち着きをもたらしていくものである。
何か事を始める前に唱えることで、その人がクリアな状態でスタートできるよう、その人の障害物を取り除いていくとされる。
例えばヨガを始める前に唱えれば、ヨガを始める前の浄化になる、といったように。
シャンティを三回必ず唱えるのであるが、そのわけは、
私が幸せであるように、私の周りが幸せであるように、生きとし生けるものが幸せであるように、との願いから、三回唱えるという説と、
自分をとりまく外側の世界(自然界:自然、動物、他人など)、スピリチュアルな世界(霊界:霊的なもの、神々など)、自分自身の肉体や感情(人間界:痛み、病気、無気力など)などの三つの世界を清めていくという意味があるという説がある。
そして、ヒンドゥーの考え方では、障害というのはこの三つの領域から引き起こされるものと考えられているからである。
それらの三つの層における障害は、シャンティマントラを唱える事により、取り除かれ、平和な世界を築いていくと信じられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
徐々にUPするので、ちょくちょく見てもろたら嬉しいです。
参考文献 Wikipwdia
と思う今日この頃。
ここではサンスクリットの単語や意味を少しくわしく見ていくことにしよう。
私もサンスクリットビギナーである。
ブログをご覧の方でサンスクリットは詳しい!っていう方は手を上げて下さい。
(って、みえへんし、笑) ほんで、教えてもらえたら嬉しいです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
SHANTI MANTRA とは 「PEACE MANTRA」という意味で、平和のマントラという和訳になる。ヴェーダ(教典、経典)の中にある文章で、ヒンドゥーの宗教的な儀式や講和にて詠唱される伝統的なものである。
SHANTI MANTRAはウパニシャッドの中に見られる祈りの言葉で、唱える人や唱える人の周り(環境)に落ち着きをもたらしていくものである。
何か事を始める前に唱えることで、その人がクリアな状態でスタートできるよう、その人の障害物を取り除いていくとされる。
例えばヨガを始める前に唱えれば、ヨガを始める前の浄化になる、といったように。
シャンティを三回必ず唱えるのであるが、そのわけは、
私が幸せであるように、私の周りが幸せであるように、生きとし生けるものが幸せであるように、との願いから、三回唱えるという説と、
自分をとりまく外側の世界(自然界:自然、動物、他人など)、スピリチュアルな世界(霊界:霊的なもの、神々など)、自分自身の肉体や感情(人間界:痛み、病気、無気力など)などの三つの世界を清めていくという意味があるという説がある。
そして、ヒンドゥーの考え方では、障害というのはこの三つの領域から引き起こされるものと考えられているからである。
それらの三つの層における障害は、シャンティマントラを唱える事により、取り除かれ、平和な世界を築いていくと信じられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
徐々にUPするので、ちょくちょく見てもろたら嬉しいです。
参考文献 Wikipwdia
ぷんなまだ、ぷんなみだん。
ॐ पूर्णमदः पूर्णमिदम् पूर्णात् पूर्णमुदच्यते |
पूर्णस्य पूर्णमादाय पूर्णमेवावशिष्यते ||
ॐ शान्तिः, शान्तिः, शान्तिः ||
Om poornamadah poornaamidam poornaat poornamudachyate,
poornasya poornamaadaaya poornamevaavasishyate,
Om Shanti, shanti, shantih.
オーム プンナマダ プンナミダン プンナ プンナムダッチャテ
プンナッシャ プンナマダーヤ プンナミヴァーヴァシッシャテ
オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ
それは完全(絶対)なもの これも完全であり、完全は完全より生じる
もしも完全から完全を取り去れば、後には完全のみが残される
オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
पूर्णस्य पूर्णमादाय पूर्णमेवावशिष्यते ||
ॐ शान्तिः, शान्तिः, शान्तिः ||
Om poornamadah poornaamidam poornaat poornamudachyate,
poornasya poornamaadaaya poornamevaavasishyate,
Om Shanti, shanti, shantih.
オーム プンナマダ プンナミダン プンナ プンナムダッチャテ
プンナッシャ プンナマダーヤ プンナミヴァーヴァシッシャテ
オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ
それは完全(絶対)なもの これも完全であり、完全は完全より生じる
もしも完全から完全を取り去れば、後には完全のみが残される
オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
オームカーラ
だいたいクラスの始まりにオームカーラ(オームを連続して唱えること)をするってのは、世界共通である。オームはどんなスタイルのヨガでも、どんなとこであっても、世界中のヨギの世界共通語である。
が、しかし、日本では、日本だけでは、オームと言うだけで、いまだにカルト的に思われる部分が拭えていない(田舎では特に、っていうかイナカだけ?)。都心部ではヨガの普及により、オームっつってももうすでにカルト風要素の言葉ではないに等しくなりつつあるかもしれないが。
カナで書くと、やたらに日本語的に「オーム」の「ム」が強調されるが、唱える場合は「ムー」とは言わん。言うときは、「オ~~ン・・・・」てな感じで、ン~と音がフェイドアウトしていく。
仏壇のチ~ンも、お寺のゴ~ンも、虫のブ~ンも、はたまた冷蔵庫の突然のブ~ン(夜中急に鳴ると怖い、笑)も、みんな実は「オ~~ン・・・」という音なのである。
なぜなら、オームは宇宙の音を表しているからである。
OM=AとUとMの結合音。A=創造、U=維持、M=終焉
宇宙は始まりと終わりを含む全ての音の源。ア(A)に始まり、ン(M)に終わる。
しかしそれは、刹那的ではなく永遠なるもの。
宇宙は、※ブラフマで、イーシュヴァラである。
すなわち、めぐりめぐって自分自身である。
実は日本人も昔から唱えていたのである。知らぬ間にね。あの事件のずうっと前の前からね。
わたしは子供の頃におばあに教えてもらった。
お地蔵さんの前にておばあが
「おんかかびーさんまあえいそわか」と唱えていた。
「それ何?」ときいたら
「まんまんちゃんあん(→うちでは、お地蔵さんを拝むっちゅう意味合いになっていた)する時に言うたらええねや」ということであった。
日本における仏教の真言っていうのはすなわちマントラなのだ。
真言宗や天台宗で言うでしょ。
おん、なんとかかんとか。おん、なんとかかんとか、って。
で、お地蔵さんの真言の
おん かかか びさん まーえい そわか
この最初の「オン」こそ、OMである。
ちなみに「そわか」はスワハである。
Om ha ha ha vismaye svaha
なんとなく言っていた言葉。ただ唱えていた言葉。
そこには何の偏見もなかったはず。
ただ、オーンという言葉を発する、そのバイブレーションが心地よい。
耳に、頭の中に、体に、響いていく振動の音。
あらゆるものを取り去って、ただ発してみるといい。
その言葉には、悪意などなく、もともとはただ神聖で澄んだ宇宙音であり、
それ以上でもそれ以下でもない。
それではみなさんご唱和ください、1・2・3・オームっ!
(ダーっ!じゃないの?)
※ブラフマ=宇宙、神、唯一、絶対・・・の大いなる存在
イシュワラ=神
が、しかし、日本では、日本だけでは、オームと言うだけで、いまだにカルト的に思われる部分が拭えていない(田舎では特に、っていうかイナカだけ?)。都心部ではヨガの普及により、オームっつってももうすでにカルト風要素の言葉ではないに等しくなりつつあるかもしれないが。
カナで書くと、やたらに日本語的に「オーム」の「ム」が強調されるが、唱える場合は「ムー」とは言わん。言うときは、「オ~~ン・・・・」てな感じで、ン~と音がフェイドアウトしていく。
仏壇のチ~ンも、お寺のゴ~ンも、虫のブ~ンも、はたまた冷蔵庫の突然のブ~ン(夜中急に鳴ると怖い、笑)も、みんな実は「オ~~ン・・・」という音なのである。
なぜなら、オームは宇宙の音を表しているからである。
OM=AとUとMの結合音。A=創造、U=維持、M=終焉
宇宙は始まりと終わりを含む全ての音の源。ア(A)に始まり、ン(M)に終わる。
しかしそれは、刹那的ではなく永遠なるもの。
宇宙は、※ブラフマで、イーシュヴァラである。
すなわち、めぐりめぐって自分自身である。
実は日本人も昔から唱えていたのである。知らぬ間にね。あの事件のずうっと前の前からね。
わたしは子供の頃におばあに教えてもらった。
お地蔵さんの前にておばあが
「おんかかびーさんまあえいそわか」と唱えていた。
「それ何?」ときいたら
「まんまんちゃんあん(→うちでは、お地蔵さんを拝むっちゅう意味合いになっていた)する時に言うたらええねや」ということであった。
日本における仏教の真言っていうのはすなわちマントラなのだ。
真言宗や天台宗で言うでしょ。
おん、なんとかかんとか。おん、なんとかかんとか、って。
で、お地蔵さんの真言の
おん かかか びさん まーえい そわか
この最初の「オン」こそ、OMである。
ちなみに「そわか」はスワハである。
Om ha ha ha vismaye svaha
なんとなく言っていた言葉。ただ唱えていた言葉。
そこには何の偏見もなかったはず。
ただ、オーンという言葉を発する、そのバイブレーションが心地よい。
耳に、頭の中に、体に、響いていく振動の音。
あらゆるものを取り去って、ただ発してみるといい。
その言葉には、悪意などなく、もともとはただ神聖で澄んだ宇宙音であり、
それ以上でもそれ以下でもない。
それではみなさんご唱和ください、1・2・3・オームっ!
(ダーっ!じゃないの?)
※ブラフマ=宇宙、神、唯一、絶対・・・の大いなる存在
イシュワラ=神
Santi mantra さはなーばばとぅ
【 SHANTI MANTRA/FINISHING PRAYER 】
OM SAHANA VAVATU
SAHANAU BHUNAKTU
SAHA VEERYAM KARAVAVAHAI
TEJASVI NAVADHITAMASTU
MAA VIDVISHAVAHAI
OM SHANTI SHANTI SHANTIH
オーム サハナ ヴァヴァトゥ
サハナウ ブナットゥ
サハ ヴィーリャム カラヴァーヴァーヘイ
テジャスヴィナーヴァディタマストゥ
マーヴィッヴィシャーヴァヘイ
オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ
※私たちが守られますように
私たちに栄養を頂くことが出来ますように
私たちが元気に働くことが出来ますように
私たちの学びが輝かしいものでありますように
私たちが互いに争うことがありませんように
オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
※わたしたち=先生と生徒、グルと弟子
OM SAHANA VAVATU
SAHANAU BHUNAKTU
SAHA VEERYAM KARAVAVAHAI
TEJASVI NAVADHITAMASTU
MAA VIDVISHAVAHAI
OM SHANTI SHANTI SHANTIH
オーム サハナ ヴァヴァトゥ
サハナウ ブナットゥ
サハ ヴィーリャム カラヴァーヴァーヘイ
テジャスヴィナーヴァディタマストゥ
マーヴィッヴィシャーヴァヘイ
オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ
※私たちが守られますように
私たちに栄養を頂くことが出来ますように
私たちが元気に働くことが出来ますように
私たちの学びが輝かしいものでありますように
私たちが互いに争うことがありませんように
オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
※わたしたち=先生と生徒、グルと弟子
yoga chitta vritti nirodha/サンスクリットの学び
ヨガ道に入ったならば、避けて通れない有名な言葉
ヨガスートラはこの言葉で始まる。
Yoga Chitta Vritti Nirodha
ヨガとは心の揺れ(動き)を止滅させることである
YOGA ヨガ
語源は「Yuj:結ぶ」である。これは、馬にくびきをかけてつないでおくことを意味する言葉。
以前のログのどこかにも書いたけれど、あなたの一部一部をつないでいくこと、あなたと全てをつないでいくことである。一見バラバラな部分でも全てはつながっているのである。
WHOLE/全体を見ることである。
CHITTA チッタ 心
心といっても、奥の深い言葉である。
人の考えることは、頭だけでなく感覚としてとらえていくような部分もある。
もっと精神的なもの、想念、思想、知的な部分や理性的な部分、感覚に付随する心の動き全体であり、叡智(知恵)であり、知性である。
チッタのアレコレについて説明を一言で出来ないため、心がどういうものであるのかを事細かく、説明をして教えてくれているのがヨガスートラである。
VRITTI ヴリッティ 起こること、揺れ、変動(Fluctuate)
ふと頭に浮かぶような動きのことであり、意識している、知覚している状態。
VORTEX(渦)とも訳される。感情の渦、エネルギーの渦の渦。
心は何かにとらわれ、ぐるぐると渦巻くネガティブ思考、もしくはウキウキ浮き足立つポジティブすぎる思考・・・。感情は先走りUP,DOWNを繰り返すものである。
NIRODHA 二ローダ(ハ) ブロックする、コントロールする、破壊する、制限する
なんだかネガティブな言葉にも聞こえてくるが、このNirohahの状態(Nirodhah state)は、仏教になじみ深い私たちの言葉に置き換えるなら、「無」かもしれない。Suspendしている状態かな。
プラナヤマ(呼吸法)には、吸う・止める・吐くの三つがあり、その「止め」の部分に無の感覚は近しいかもしれない。書道でも、止め、はね、はらいがあり、止めっちゅうのはなかなか大事な部分である。
思い思いに動こうとする馬(心)を御者が手綱によってコントロール(Nirodha)するのと同じで、
心は訓練次第で、Nirohahできるのである。
ヨガのアサナ、瞑想、呼吸法とどれをとってみても、Nirodhaの部分が含まれているとわかるだとろう。頭でわかるのではなく、実際に体を使って身を持って体験していると気づくだろう。
ヨガスートラはこの言葉で始まる。
Yoga Chitta Vritti Nirodha
ヨガとは心の揺れ(動き)を止滅させることである
YOGA ヨガ
語源は「Yuj:結ぶ」である。これは、馬にくびきをかけてつないでおくことを意味する言葉。
以前のログのどこかにも書いたけれど、あなたの一部一部をつないでいくこと、あなたと全てをつないでいくことである。一見バラバラな部分でも全てはつながっているのである。
WHOLE/全体を見ることである。
CHITTA チッタ 心
心といっても、奥の深い言葉である。
人の考えることは、頭だけでなく感覚としてとらえていくような部分もある。
もっと精神的なもの、想念、思想、知的な部分や理性的な部分、感覚に付随する心の動き全体であり、叡智(知恵)であり、知性である。
チッタのアレコレについて説明を一言で出来ないため、心がどういうものであるのかを事細かく、説明をして教えてくれているのがヨガスートラである。
VRITTI ヴリッティ 起こること、揺れ、変動(Fluctuate)
ふと頭に浮かぶような動きのことであり、意識している、知覚している状態。
VORTEX(渦)とも訳される。感情の渦、エネルギーの渦の渦。
心は何かにとらわれ、ぐるぐると渦巻くネガティブ思考、もしくはウキウキ浮き足立つポジティブすぎる思考・・・。感情は先走りUP,DOWNを繰り返すものである。
NIRODHA 二ローダ(ハ) ブロックする、コントロールする、破壊する、制限する
なんだかネガティブな言葉にも聞こえてくるが、このNirohahの状態(Nirodhah state)は、仏教になじみ深い私たちの言葉に置き換えるなら、「無」かもしれない。Suspendしている状態かな。
プラナヤマ(呼吸法)には、吸う・止める・吐くの三つがあり、その「止め」の部分に無の感覚は近しいかもしれない。書道でも、止め、はね、はらいがあり、止めっちゅうのはなかなか大事な部分である。
思い思いに動こうとする馬(心)を御者が手綱によってコントロール(Nirodha)するのと同じで、
心は訓練次第で、Nirohahできるのである。
ヨガのアサナ、瞑想、呼吸法とどれをとってみても、Nirodhaの部分が含まれているとわかるだとろう。頭でわかるのではなく、実際に体を使って身を持って体験していると気づくだろう。
SHANTI MANTRAで学ぶサンスクリット②
Asatoma Prayer:
アサトマの祈りといわれるマントラで、ブラダラニャカ・ウパニシャッド(Brhadaranyaka Upanishad — I.iii.28)というヴェーダにみられるもの。ハタヨガでは、始まりの歌として有名なので、聞いた事がある方も多いと思います。
Asatoma Sad Gamaya 虚構から真実へ
Tamaso Maa Jyothir Gamaya 暗闇から光明へ
Mrityur Maa Amritam Gamaya 滅から不滅へ 私をお導きください
Om Shanti Shanti Shantihi オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
これは道を求める者(求道者)の心の思いを表している。
私を進むべき道に導いて下さい、と、自分の心を揺るぎないものにするための決意表明といったところかもしれない。自分自身が惑わされる事なく、真実へと進めるように。
① 1番目のパラグラフ
ASATOMA SADGAMAYA ASAT(O) MA SAT(D) GAMAYA
「SAT」/「ASAT」: 真実/虚構
サンスクリットでは、Aがつくと否定形になるので(A=NON)
SAT 真実の反対語として ASAT
ASATがSATになりますように・・・と祈っているのである。
SATは、ヒンドゥーではしばしば出てくる単語で、ただ単に日本語の「うそ、ほんと」の本当という意味だけではなく、しばしば宗教的な深い意味を含む。宗教が根付いていない現代の日本では解釈が難しいかもしれないが、いわば神のような広いもの、宇宙的な何か、大いなる、不変の、という意味をも含んでいる。
「GAMAYA」:GAMA(=COME) 導く、行く、来る
たぶんこの求道者は嘘まみれの世界に嫌気がさしているのかもしれない。
自分は真実を生きたい、まっとうに生きたいから、どうかグル(師)よ、私をそのように導いて欲しいのです、と切実な感じも否めない。
② 二番目のパラグラフ
TAMASOMA JYOTHIRGAMAYA TAMAS(O) MA JYOTHIR GAMAYA
「TAMAS」:闇
アーユルヴェーダでは、食べ物を三つに分類し、サットヴァ(純粋なもの)・ラジャス(刺激物)・タマス(有害なもの)とする。タマスは心身に害を与えて何の得ももたらさないものである。上記にあるSATのサットヴァで純粋なものをさすが、その反対としてタマスがある。
どうしてもマイナスな感じがいなめない、タマス(闇)なのである。
「JYOTHIR」:JYOTIS 光
喜び、歓喜を表すもの、智恵に溢れ、聡明な様子である。太陽神というように、太陽や光は、私たちを正しい道に導いてくれる明るくまばゆいものである。だからこその太陽礼拝である。
よくこの「闇から光へ」という文章は定番である。マントラの中にもJYOTHIRという単語はよく使われているので、耳にしやすいと思う。
これは、無知なる闇の状態から解放され、叡智を授けられて輝く光のもとへと行きたいと思う気持ちの表れでもあると思う。
③ 三番目のパラグラフ
MRTYOMA AMRTAMGAMAYA
「MRTYO」:MR TYU 死
「AMRTAM」:AMR TAM 不死
アムリタ(不死の甘露)のこと。
また A が。死にAがつくので、死なないこと
ここでいう不死っていうのは、ただ単なるエゴイスティックな延命や不老不死という意味ではなく、もうこの世に生まれ変わる必要のない完全に浄化され悟った者になることを目的としているため、不死という言葉がくる。ヨガというかヒンドゥーでの最大の目的は「完全なる悟り」であるから、不死なのである。ヨガスートラやその他教典にも詳しく出ているのでお調べいただきたい。
求道者は、もう生まれ変わることのないような悟りを得たいと訴えているのだろう。
まとめれば、このマントラでは求道者は「私はヨギとして生きていきます!(だから神様見ていてください、守ってください、導いてください。)」ということを誓っているのだといえるでしょう。
アサトマの祈りといわれるマントラで、ブラダラニャカ・ウパニシャッド(Brhadaranyaka Upanishad — I.iii.28)というヴェーダにみられるもの。ハタヨガでは、始まりの歌として有名なので、聞いた事がある方も多いと思います。
Asatoma Sad Gamaya 虚構から真実へ
Tamaso Maa Jyothir Gamaya 暗闇から光明へ
Mrityur Maa Amritam Gamaya 滅から不滅へ 私をお導きください
Om Shanti Shanti Shantihi オーム 平安なれ 平安なれ 平安なれ
これは道を求める者(求道者)の心の思いを表している。
私を進むべき道に導いて下さい、と、自分の心を揺るぎないものにするための決意表明といったところかもしれない。自分自身が惑わされる事なく、真実へと進めるように。
① 1番目のパラグラフ
ASATOMA SADGAMAYA ASAT(O) MA SAT(D) GAMAYA
「SAT」/「ASAT」: 真実/虚構
サンスクリットでは、Aがつくと否定形になるので(A=NON)
SAT 真実の反対語として ASAT
ASATがSATになりますように・・・と祈っているのである。
SATは、ヒンドゥーではしばしば出てくる単語で、ただ単に日本語の「うそ、ほんと」の本当という意味だけではなく、しばしば宗教的な深い意味を含む。宗教が根付いていない現代の日本では解釈が難しいかもしれないが、いわば神のような広いもの、宇宙的な何か、大いなる、不変の、という意味をも含んでいる。
「GAMAYA」:GAMA(=COME) 導く、行く、来る
たぶんこの求道者は嘘まみれの世界に嫌気がさしているのかもしれない。
自分は真実を生きたい、まっとうに生きたいから、どうかグル(師)よ、私をそのように導いて欲しいのです、と切実な感じも否めない。
② 二番目のパラグラフ
TAMASOMA JYOTHIRGAMAYA TAMAS(O) MA JYOTHIR GAMAYA
「TAMAS」:闇
アーユルヴェーダでは、食べ物を三つに分類し、サットヴァ(純粋なもの)・ラジャス(刺激物)・タマス(有害なもの)とする。タマスは心身に害を与えて何の得ももたらさないものである。上記にあるSATのサットヴァで純粋なものをさすが、その反対としてタマスがある。
どうしてもマイナスな感じがいなめない、タマス(闇)なのである。
「JYOTHIR」:JYOTIS 光
喜び、歓喜を表すもの、智恵に溢れ、聡明な様子である。太陽神というように、太陽や光は、私たちを正しい道に導いてくれる明るくまばゆいものである。だからこその太陽礼拝である。
よくこの「闇から光へ」という文章は定番である。マントラの中にもJYOTHIRという単語はよく使われているので、耳にしやすいと思う。
これは、無知なる闇の状態から解放され、叡智を授けられて輝く光のもとへと行きたいと思う気持ちの表れでもあると思う。
③ 三番目のパラグラフ
MRTYOMA AMRTAMGAMAYA
「MRTYO」:MR TYU 死
「AMRTAM」:AMR TAM 不死
アムリタ(不死の甘露)のこと。
また A が。死にAがつくので、死なないこと
ここでいう不死っていうのは、ただ単なるエゴイスティックな延命や不老不死という意味ではなく、もうこの世に生まれ変わる必要のない完全に浄化され悟った者になることを目的としているため、不死という言葉がくる。ヨガというかヒンドゥーでの最大の目的は「完全なる悟り」であるから、不死なのである。ヨガスートラやその他教典にも詳しく出ているのでお調べいただきたい。
求道者は、もう生まれ変わることのないような悟りを得たいと訴えているのだろう。
まとめれば、このマントラでは求道者は「私はヨギとして生きていきます!(だから神様見ていてください、守ってください、導いてください。)」ということを誓っているのだといえるでしょう。
< 前のページ次のページ >

