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SAMADHI サマーディ
さんまい【三×昧】 [名]《(梵)samdhiの音写。三摩提・三摩地とも音写。定・正定・等持などと訳す》 1 仏語。 心を一つの対象に集中して動揺しない状態。雑念を去り没入することによって、 対象が正しくとらえられるとする。 (大辞泉) 仏教用語では「定」となり、 「心を一処に定めて動くことがない」(※1)、という意味。 しかし、動くことがなくなったらどやねん?ってことで。 Yoga sutraの三章は、サマディ・パダといって、サマディについての項目がある。 そこには、こう書かれている。 “Samadhi is the deep absorption, wherein only the essence of that object, place, or point shines forth in the mind, as if the mind were devoid even of its own form” サマディは、心が深いワンネス(吸収、合併、没頭)の状態であり、対象物等の本質部分の中に存在する、あたかもマインドがその固有の形でさえもない状態のこと。 意味わからん。でしょ。 もう自分の思いも何もない、自我のない、大いなるものに自分自身もが溶け合っている状態・・・ =無限大、てな感じで訳すといいかもしれない。 まず、心が統一され、意識が集中された先に三昧がある。(※2) 拡散されていた気が一点に集中されて絞られていくと、広がっているところから段々狭まって細くなって点になっていくような感覚が起こってくる。点=無or光線に近い感じ。 宇宙にちりばめられた星達の先にあるブラックホールのような。(よけわからん。) 三昧は、心が何物にも占領されていない状態で、動揺もなく、活動が停止されている状態。 また、「ギーターとヨーガ関連ノート」(武井和夫著)によれば、「五感の働きがなく、純粋な思考で得られる直感。想念ではなく、対象物そのものに近い状態。」とある。 相手の立場に立って考えなさい、という言葉があるけれど、 例えば、自分が、「相手がこうかな?」と、推測している感覚と、相手が実際に感じているのは違う。 三昧の感覚は、自分の思いではなく、相手の心の感じ方そのものに近いか、そのもの。 自分=相手、と同化しているような感じ? 自分=対象物 自我ではなく、真我(アートマン)であり、ブラフマン(Sat chit ananda)そのもの。 Bhakti=愛の状態。キリストが説いた隣人愛のような、自我のない無私の状態。 そこにはもう主観がなく、客観のみが残っている。 そうなった時、エゴは消え、物事はあるがままでパーフェクトになっているのかもしれない。 客観さえも超えてしまって、何かを思うこと自体がもう無いのかもしれない。 自分の心の中にはひとかけらの想いの種子も無く、Jivamukti(生きながらに解脱している)となっているのだろう。 まだなっていないので、なんともいえませんが。 まあ、推測です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ※1 わたしはこれは、「Chitta vritti nirodhah」になると思う。 ※2 Dharana:集中、Dhyana:瞑想、Samadhi:三昧、これらの三組セットでSamyama/サンヤマという。 ヨガの哲学は、インド独特の宇宙観がもとにあるため、ユニバーサルな考え方や表現が多い。
by mandala-2
| 2008-04-24 20:26
| ヨガ話
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